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その他の情報氷河期 ヨーロッパの山岳地帯に住む人々にとって、過去には氷河がより広がっていたというのは一般的な知識であり(Imbrie and Imbrie 25ページには木コリがスイスのグリムゼル氷河の過去の広がりについて Jean de Charpentier に語ったことが引用されている)、誰かがこのアイデアを作り出した訳ではない。J. Charpentier はこの説を支持する証拠をまとめあげた。1836年には理論をルイ・アガシーに納得させ、アガシーは、Etude sur les glaciers を1840年に出版した。 この最初の段階で研究されたのは現在の氷河期の中で過去数十万年に起こった氷期についてであり、更に過去の氷河期の存在については想像されもしなかった。 氷期の証拠は様々な形で得られる。岩が磨かれたり削られた跡(擦痕)やそのような浸食作用をうけてきた独特の形状の岩(羊背岩など)、氷河の末端や縁辺に堆積した角礫(モレーン)、独特の氷河地形(ドラムリン、氷河谷など)、「ティル」や「ティライト」等の氷河性堆積物である。しかし繰り返し起こる氷河作用が、それ以前の氷河作用の地質学的証拠を変形・消去することで解釈を難しくしており、現在の理論に到達するまでには時間がかかった。 近年では氷床コアや海底堆積物コアの解析により、氷期間氷期の過去数百万年を明らかにすることが可能になっている。 |
織田長益 戦後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた。現在、正伝永源院(明治期、名称を変更)には長益夫妻、孫・長好らの墓がある。また、長益夫妻、孫娘(次男頼長の娘)、兄・信包らの肖像画も伝わっている。大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。一方、嫡男の織田頼長は強硬派であり、和平派としばしば対立している。冬の陣後、治長と共に和睦を締結させ、家康に人質を出すが、大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、徳川家康・秀忠に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と許可を得て豊臣家から離れた。 大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。元和元年(1615年)8月、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、長益本人は隠居料として1万石を手元に残した。元和7年(1621年)12月13日、京都で死去。享年76。 |