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その他の情報雌蕊 雌蕊はほとんどの花で最も内側の部分を構成する。 多くの花では他の部分(がく、花弁、雄蕊)は雌蕊よりも下の花托についている。この場合子房は他の部分よりも上にあり、子房上位といわれる。 サクラ、モモ、バラなどでは、他の部分は融合して筒状のがく筒を形成する。この場合には子房は、位置的にはがく、花弁、雄蕊より下にあるが、つき方としては上にあると考えられ、このような花は子房周位と呼ばれる。 がく筒が子房と融合し、がくや花弁や雄蕊が子房の上から出ているように見える花は、子房下位と呼ばれる。例としてはリンゴ、ナシ、ウリ科、キク科などがあり、これらではがく筒の付け根が果実のようになるもの(偽果)も多い。 また子房ががく筒に半分ほど埋まっている花は子房中位と呼ばれ、サクラソウなどがある。子房の位置によって果実のでき方も異なり、植物の同定と分類において重要である。 心皮は根元の子房と先の花柱、柱頭に分化する。心皮は系統発生的には大胞子葉と相同であって葉のような構造に由来すると考えられる(葉が集まったような形をした、ソテツの雌花のようなイメージ)。その過程については諸説あるが、要約すれば、心皮が折りたたまれ、あるいは複数が融合(合生)して内部に空洞(子房室)を作り、胚珠のつく部分(胎座)がその内側にできたということになる。 これは、シダ植物においては、胞子嚢から放出された胞子が、地上で発芽して前葉体を生じ、ここに卵と精子を形成、その受精によって新たに胞子体(シダの植物体)を形成する、という流れであったものが、以下のような段階を経て現在の状態に至ったものと考えられる。 |
織田長益 戦後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた。現在、正伝永源院(明治期、名称を変更)には長益夫妻、孫・長好らの墓がある。また、長益夫妻、孫娘(次男頼長の娘)、兄・信包らの肖像画も伝わっている。大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。一方、嫡男の織田頼長は強硬派であり、和平派としばしば対立している。冬の陣後、治長と共に和睦を締結させ、家康に人質を出すが、大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、徳川家康・秀忠に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と許可を得て豊臣家から離れた。 大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。元和元年(1615年)8月、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、長益本人は隠居料として1万石を手元に残した。元和7年(1621年)12月13日、京都で死去。享年76。 |