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その他の情報コミューン フランスの県や地域圏とは異なりコミューンの歴史は古く、住民の宣誓共同体という形態では中世の11-12世紀の頃にさかのぼるものもある。ただし、現在の多くの自治体については、特にその管轄範囲の起源をめぐっては、カトリック教会の地方組織として整備された教区(パロワスparoisse)が基礎となっていることが多い。制度的には、フランス革命を経た後、教区の範囲が現在のコミューンの範囲とされ、19世紀には議会と首長の公選制が導入されている。 人口がほぼ日本の半分のフランスに、日本の市町村数の20倍ほどの3万8千のコミューンがあり、規模は日本の市町村より小さいものが多く、コルビエールのように人口が26人のコミューンもある。この点はイタリアのコムーネと共通している。 日本の市町村と比べるとコミューンの規模は小さく、平均人口は約1500人で、約9割が人口2000人未満である 日本の市町村にあたるが、フランスには日本のような行政上の市、町、村の区別はない。地図上に「都市」も「村」も存在しない。人口80万人のマルセイユも、200人程度のカマンベールもコミューンである。そのため、通例、日本の自治体の規模と翻訳者の主観に合わせて「マルセイユ市」、「カマンベール村」のように恣意的に翻訳される。 コミューンには、議会(conseil municipal)と市長(maire)が置かれる。議会の議員は住民の直接選挙で選ばれる。市長は議員の中から互選され、議会の議長と執行機関の長を兼ねる。 |
織田長益 戦後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた。現在、正伝永源院(明治期、名称を変更)には長益夫妻、孫・長好らの墓がある。また、長益夫妻、孫娘(次男頼長の娘)、兄・信包らの肖像画も伝わっている。大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。一方、嫡男の織田頼長は強硬派であり、和平派としばしば対立している。冬の陣後、治長と共に和睦を締結させ、家康に人質を出すが、大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、徳川家康・秀忠に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と許可を得て豊臣家から離れた。 大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。元和元年(1615年)8月、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、長益本人は隠居料として1万石を手元に残した。元和7年(1621年)12月13日、京都で死去。享年76。 |