−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
その他の情報パンノニア パンノニアには、元々はイリュリア人に近い部族であるパンノニア族が住んでいた。紀元前4世紀以降、この地域は多くのケルト人部族からの侵略を受けるようになるが、その頃の出来事についてはあまり知られていない。 紀元前35年、当時のパンノニアはダルマティア族と同盟を結んでいたが、初代ローマ皇帝アウグストゥスが侵攻してきてシスキア(Siscia、en:Sisak)を征服した。紀元前9年、パンノニアは明確にローマ帝国の支配下に入り、イリュリクム属州に併合されて国境線がドナウ川まで広がった。 西暦6年、パンノニア族はダルマティア族など他のイリュリア人と連合して反乱を起こした。激しい戦いが3年間続いたが、結局はローマ帝国のティベリウスとゲルマニクスによって制圧された。この後にイリュリクム属州は新に二つの属州に分割され、北側がパンノニア属州、南側がダルマティア属州になった。分割が正確にはいつ行われたのかは不明だが、20年から50年の間だと考えられている。この地域の隣は攻撃的な蛮族(クァディ族、マルコマンニ族)の領域だったので、ドナウ川の川岸には大勢の軍が配備され(後年には7個軍団となった)、数多くの砦が建造された。 上パンノニア属州はコンスル格の総督(レガトゥス)が支配し、この総督は駐留部隊として3個のローマ軍団の指揮権を有した。一方の下パンノニア属州は、初めはプラエトル格の総督が駐屯部隊として1個軍団を持ち統治したが、皇帝マルクス・アウレリウスの後は軍団数はそのままにコンスル格の総督の担当地域に変更された。ドナウ川の国境線を守るために、皇帝ハドリアヌスによってアエリア・ムルシア(Aelia Mursia 、現オシエク)とアエリア・アクィンクム(Aelia Aquincum、現en:Obuda)の二つの植民市が築かれた。 |
織田長益 戦後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた。現在、正伝永源院(明治期、名称を変更)には長益夫妻、孫・長好らの墓がある。また、長益夫妻、孫娘(次男頼長の娘)、兄・信包らの肖像画も伝わっている。大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。一方、嫡男の織田頼長は強硬派であり、和平派としばしば対立している。冬の陣後、治長と共に和睦を締結させ、家康に人質を出すが、大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、徳川家康・秀忠に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と許可を得て豊臣家から離れた。 大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。元和元年(1615年)8月、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、長益本人は隠居料として1万石を手元に残した。元和7年(1621年)12月13日、京都で死去。享年76。 |