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その他の情報トゥールーズ 2006年の人口は437,715人にのぼる。トゥールーズの近郊にはトゥールーズ市の人口を含め96万4,797人が住み、都市圏としてはフランス第5の規模を持つ(2006年時点)。在住日本人の数は2009年度で約200名と推定されており、日本人子弟のためのトゥールーズ日本語補習授業校が運営されている。 独特の建築的外観を持つ建物が多いことから、別名『バラ色の都市』(la ville rose)と呼ばれる。これは、他のフランス都市であれば石を山から切り出してきて建築資材に使用するところ、トゥールーズ周辺には資材に適した石がないため、焼いたテラコッタ・レンガを積み重ねて資材としたことに由来する。また他の別名には『スミレの市街』(Cite des violettes)がある。スミレの群生地がトゥールーズにあり、ここでの花の生産は非常に重要とされてきた。過去には、『モンディーヌの市街』(Cite Mondine、オック語ではCiutat Mondina)と呼ばれた。これは、トゥールーズ伯のお膝元であることを、歴代伯が多く名乗ったレーモン(Raymond)の名から引用している。 トゥールーズはオート=ガロンヌ県北部に位置し、地中海と大西洋とを往復する重要路の途上にある。ピレネーから発したガロンヌ川が、北東の湾曲部にあたるトゥールーズで方向を変え、北西の方角に流れて大西洋に注ぐ。晴天の日には、市街の南端からピレネー山脈の山並みが見える。ガロンヌの湾曲部は天然の交差路となっており、トゥールーズで生まれた先史の人々もここに定住した。 地形はガロンヌ川支流の谷の集中で特徴づけられる。南へ向けて流れるアリエージュ川は、ヴィエイユ・トゥールーズの急斜面を通り、ペック・ダヴィドの突端の上にあるトゥールーズで主要河川となる。 |
織田長益 戦後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた。現在、正伝永源院(明治期、名称を変更)には長益夫妻、孫・長好らの墓がある。また、長益夫妻、孫娘(次男頼長の娘)、兄・信包らの肖像画も伝わっている。大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。一方、嫡男の織田頼長は強硬派であり、和平派としばしば対立している。冬の陣後、治長と共に和睦を締結させ、家康に人質を出すが、大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、徳川家康・秀忠に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と許可を得て豊臣家から離れた。 大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。元和元年(1615年)8月、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、長益本人は隠居料として1万石を手元に残した。元和7年(1621年)12月13日、京都で死去。享年76。 |