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その他の情報コンスタンティノープル コンスタンティノープルは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、古代ギリシアの植民都市ビュザンティオン(Βυζ?ντιον, Byzantion)の地に建設した都市である。この地は古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。当時の都市名の「コンスタンティーノポリス」は「コンスタンティヌスの町」を意味する。 395年のローマ帝国東西分割後は、東ローマ帝国の首都となり、「新ローマ」「第2のローマ」という意識が定着した。東ローマ帝国の隆盛と共に、30万〜40万の人口を誇るキリスト教圏最大の都市として繁栄し、「都市の女王」「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれた。また古代の建造物が残る大都市としてその偉容を誇った。正教会の首長であるコンスタンディヌーポリ総主教座が置かれ、正教会の中心ともなり、ビザンティン文化の中心でもあった。都市の守護聖人は聖母マリアである。 コンスタンティノープルは強固な城壁の守りでも知られ、東ローマ帝国の長い歴史を通じて外敵からの攻撃をたびたび跳ね返した。しかし1204年に第4回十字軍の攻撃を受けると衰退が加速した。1453年にオスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡すると、この街はオスマン帝国の首都となった。日本ではこれ以後をトルコ語によるイスタンブルの名で呼ぶことが多い。ただし、公式にイスタンブルと改称されるのはトルコ革命後の1930年である。 現在も東方正教会およびアルメニア使徒教会は、コンスタンディヌーポリ総主教座をイスタンブルに置いている。東方正教会のコンスタンディヌーポリ総主教の正式称号は「新ローマ・コンスタンディヌーポリの大主教、全地の総主教」であり、この都市に付された「新ローマ」の称号は現在もなお生きている。 |
織田長益 戦後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた。現在、正伝永源院(明治期、名称を変更)には長益夫妻、孫・長好らの墓がある。また、長益夫妻、孫娘(次男頼長の娘)、兄・信包らの肖像画も伝わっている。大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。一方、嫡男の織田頼長は強硬派であり、和平派としばしば対立している。冬の陣後、治長と共に和睦を締結させ、家康に人質を出すが、大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、徳川家康・秀忠に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と許可を得て豊臣家から離れた。 大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。元和元年(1615年)8月、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、長益本人は隠居料として1万石を手元に残した。元和7年(1621年)12月13日、京都で死去。享年76。 |