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その他の情報貧困線 貧困線が、どの収入水準に引かれるかは場所によって違うが、1国の中ではばらつきがあるものの、一定の範囲内に収まる。このばらつきは、場所により生活に必要な収入が違うために起きる。都市部と農村部では物価の差があり、温暖な地方と寒冷な地方では光熱費に大きな差が生じるなど、国の中でも場所により貧困線は上下する。 ほとんど全ての社会には貧困状態にある住民がいる。貧困線は社会学や経済学の指標であり、貧困状態にある住民を減らすために必要な社会政策を決定するのに有効である。貧困線以下にある住民が多い社会は、最低限の生活を送る必要があるため、経済発展が阻害される。このため、近代的な国家の目標は、社会の全ての構成員を貧困線を上回る収入を生活保障や雇用保険の失業等給付を通して、保障することにある。 貧困線を計算する基本の手法は、1人の成人が1年間に最低限必要な物の購入費用を積み立てていく方法がとられる。住環境に費やす費用が収入のもっとも大きな割合を占めることが多いことから、歴史的に経済学者は物件価格や賃貸費用の変動に注目してきた。個人の年齢や家族構成により貧困線は上下する。多くの先進国では娯楽や嗜好品なども貧困線を算出する際に加算している。これは単に衣食住が満たされる状況は、貧困状態未満であるという認識があるためである。 貧困線は、厳密な指標ではなく、貧困を計る恣意的な指標の1つでしかない。貧困線を若干上回る収入と若干下回る収入の間に大きな生活水準の差は無いためである。 |
織田長益 戦後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた。現在、正伝永源院(明治期、名称を変更)には長益夫妻、孫・長好らの墓がある。また、長益夫妻、孫娘(次男頼長の娘)、兄・信包らの肖像画も伝わっている。大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。一方、嫡男の織田頼長は強硬派であり、和平派としばしば対立している。冬の陣後、治長と共に和睦を締結させ、家康に人質を出すが、大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、徳川家康・秀忠に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と許可を得て豊臣家から離れた。 大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。元和元年(1615年)8月、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、長益本人は隠居料として1万石を手元に残した。元和7年(1621年)12月13日、京都で死去。享年76。 |