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その他の情報オーランド諸島 1856年のパリ条約によって、オーランドは非武装地帯に指定された。しかし第一次世界大戦の勃発とともにロシアは条約に違反してオーランドの要塞化を開始した。大戦末期になるとオーランドはフィンランドからの分離志向を強め、フィンランド独立間近の1917年には、オーランドの代表がスウェーデンへの統合を求める嘆願をスウェーデン王に提出するに至る。オーランド分離を阻止すべく、1920年にフィンランドはオーランドに対し広範な自治権を付与するオーランド自治法を成立させるも、オーランドは逆にスウェーデンに対し、島の帰属を決定する住民投票を実施できるように要請し、両国間の緊張が高まる結果となった。このため、スウェーデンは国際連盟にオーランド問題の裁定を託し、フィンランドもこれに同意した。 1921年に、国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造を中心として、オーランドのフィンランドへの帰属を認め、その条件としてオーランドの更なる自治権の確約を求めたいわゆる「新渡戸裁定」が示された。これらは両国政府の具体化作業と国際連盟の承認の後、1922年にフィンランドの国内法として成立し、オーランドの自治が確立した。 現在フィンランド政府によって、スウェーデンへの復帰を認められているが、帰属国を問う住民投票では現状を望む人が半数を越える。スウェーデンに復帰すれば一つの県にすぎないが、フィンランドのもとでは大幅な住民自治を認められ、海洋地域であるオーランドにとって非常に自由が利くからだとされる[要出典]。スウェーデンのストックホルムとフィンランドのヘルシンキ、トゥルクを結ぶフェリーのほとんどが首都マリエハムンの港に寄港する。距離的には、フィンランドよりスウェーデンのほうが近く、諸島の最西部と対岸のスウェーデンを結ぶ最短距離の航路だと、所要時間は2時間ほど。また、航空便もストックホルムとヘルシンキ、トゥルクから飛んでいる。 |
織田長益 戦後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた。現在、正伝永源院(明治期、名称を変更)には長益夫妻、孫・長好らの墓がある。また、長益夫妻、孫娘(次男頼長の娘)、兄・信包らの肖像画も伝わっている。大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。一方、嫡男の織田頼長は強硬派であり、和平派としばしば対立している。冬の陣後、治長と共に和睦を締結させ、家康に人質を出すが、大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、徳川家康・秀忠に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と許可を得て豊臣家から離れた。 大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。元和元年(1615年)8月、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、長益本人は隠居料として1万石を手元に残した。元和7年(1621年)12月13日、京都で死去。享年76。 |